Chapter_II 日本との出逢い
内科教授ヴンデルリヒの助手を務めていた1875年のこと。ベルツが勤務する大学病院に、一人の日本人学生が入院しました。その学生とは,東京大学医学部の前身となる第一大学区医学校で校長を務めていた相良治安氏の弟で、日本政府が派遣する第一回留学生としてライプチヒ大学で学んでいた相良元貞氏でした。
ベルツは相良に気をかけ、度々病床を見舞ってはさまざまな話を重ねます。その際にふとベルツが発した「今後、日本で医学の教師が入用の節は私がいきませう」という言葉が、ベルツ自身のみならず、日本の近代医学の未来を変えることになりました。
(相良隆弘氏提供)
しばらくして、ベルツに日本から招聘状が届きました。ベルツは「一生のうち是非二,三年間日本に行って人類学上東洋人と西洋人の損相,風土,人情,習慣,食物といふものゝ相違,仏教と基督教との相違等を研究して見たい」と思いましたが、母親の気持ちを察し即答を避けました。しかし母は「お前のような若僧に船賃まで出して招かれるのは結構な話だ」と許し、1876年(明治9年)4月にドイツを出発。6月15日に横浜港に到着し、27歳のベルツの日本での暮らしが始まりました。
出典:『ベルツ博士と日本の医学』永井 良三著
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